今年を振り返ろう

気付けばもう年の瀬になっていたので、今年の振り返りをよくある今年の○○ベスト10形式でしようと思う。年明けに向けて先週あたりに部屋の掃除と模様替えをしたんだけどかなり新鮮に感じるのでおすすめ。思ってたよりも長くなったので2,3記事に分ける。

 

【読んで良かった本】

白川晋太郎『ブランダム 推論主義の哲学:プラグマティズムの新展開』青土社、2021年

 

ミランダ・フリッカー『認識的不正義:権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか』佐藤邦政監訳、飯塚理恵訳、勁草書房、2023年

 

ケイト・マン『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』小川芳範訳、慶應義塾大学出版会、2019年

 

鈴木貴之編『実験哲学入門』勁草書房、2020年

 

井頭昌彦編『質的研究アプローチの再検討:人文・社会科学からEBPsまで』勁草書房、2023年

 

WIlliamson, T. (2022). The Philosophy of Philosophy. 2nd Edition, Wiley-Blackwell.

 

Cappelen, H. (2012). Philosophy Without Intuitions. Oxford, GB: Oxford University Press UK.

 

アヴナー・バズ『言葉が呼び求められるとき:日常言語哲学の復権』飯野勝己訳、勁草書房、2022年

 

Jenkins, K. (2023). Ontology and Oppression: Race, Gender, and Social Reality. New York, US: OUP Usa

 

哲学会編『分析哲学を問い直す』(哲学雑誌 136巻 809号)有斐閣、2022年

 

 

①の『ブランダム 推論主義の哲学』は今年でもう3回近く読み直してるくらい気に入っている本。推論主義の課題に世界そのに応答できるかといものがあるけど、反自然主義にコミットする推論主義にとってこの問題はメイヤスー『有限性の後で』における相関主義批判とかなり重なる部分があると思う。相関主義の歴史においてこの呪縛はかなり強力なものであり、推論主義も抜け出すことは難しいとは思う。けれども、最近の飯川論文など推論主義はこれまで困難であった問いに対し魅力的な回答を示しており、今後に期待しかない。

②と③、⑨は応用分析哲学ともいえるフェミニスト哲学の著作。②の『認識的不正義』は2月頃に発売して直ぐに読んだ記憶がある。これがかなり面白く、偏見などに応じてどのように発言が無下に扱われたり過大に評価されるかというものを分析系認識論的な視点で論じた本。因みに⑨の『Ontology and Oppression』はいわばその存在論版ともいえる本。ただ内容が所々難解で、特に系譜学の箇所を曖昧な読解をしていたので再読したい。

③の『ひれ伏せ、女たち』はゼミで読んだ本。「ミソジニー」という概念は一般に「女性嫌悪」として理解されているけど、この理解では色々な不整合が生じており不十分だとマンはいう。そこでミソジニー概念を概念工学して「家父長制規範からはみ出している/はみ出そうとする女性に対して、その規範の内にとどまらせようとする力」として理解するべきだと論じ、アイラビスタ銃乱射事件やトランプの発言などからミソジニーの実例を分析する。見方や考え方が変わる本と言われる本は色々あるけど、マンの本は正にこれで日常の中やアニメやドラマで無意識のうちに実践されるミソジニーに過敏になる。今はこれらの一連の著作を読んでフェミニズム思想に一定の関心が芽生えているのだけど、元々はフェミニズムに対して良い印象を持ってはいなかった。ネットではヴィーガンを初めフェミニストなどはよくバカにされる対象として扱われがちでその影響もあったのだが、実際にそうした事柄について扱った文献と真剣に向き合うとバカにしてた頃は相手側に対する理解が表面上なだけであったというのを実感出来る。批判するにせよ表面上の理解では建設的ではないので重要な教訓だった。

残りの著作はすべて方法論に関するものになる。④の『実験哲学入門』はタイトルの通りで実験哲学の手引書。本書は当然といえば当然なのだが、文化人類学脳科学などの本を読んでいるときと似たような面白さがある。というのも文化人類学認知科学などの研究成果から人の認知というものは文化圏によって異なっているかもしれないということがわかったが、このことは「事例の方法 the method of cases」を代表に直観に依拠した理論構築を行っている哲学の根本に対する強烈な批判になりうる。この点を突いたのが実験哲学であるからだ。こうした背景を持つことから実験哲学は質問紙法やfMRIなどを用いてより客観的な仕方で哲学における既存の理論を検証/反証したり再構築したりすることが目的となっている。実験哲学の面白さというのは、以上でみたような哲学における根本の部分の問題性を恐らく現代において一番初めに指摘した点にあると思う。例えば、クリプキ流の指示の因果説やゲティア事例に対して、直観の差異という観点から批判を行うというというのは予想外の変化球を受けたような気分になった。この指摘に加えてどのようなオルタナティブを提示するか、加えてその過程を実験的なアプローチで行うというのが極めて新鮮で面白かった。それに対して⑦の『Philosophy Without Intuitions』はそもそも直観や事例の方法といったものが哲学において過大評価されているのではないか、という指摘を行った本であった。この批判は実験哲学にも当てはまるが、どちらも哲学における直観というものを再検討するという点においては共通している。ただこちらの批判に関してはあまり腑に落ちない部分があって、というのも60年代広範に生まれ盛んに議論されることになるゲティア事例、ブラウンソン事例、トロリー事例、フランクファート型事例や、それ以降にも世界五分前仮説、水槽の中の脳、双子地球、メアリーの部屋、中国語の部屋、スワンプマン、哲学的ゾンビなど、哲学においてここ数十年で思考実験に基づいた議論は数多くそれも活発に行われており、直観はやはりある程度哲学的議論において重要な地位を占めているように直観的に感じているから。

⑤の『質的研究アプローチの再検討』はKing、Keohane、Verbaらの共著『社会科学のリサーチ・デザイン』が発端として起こったKKV論争を軸に質的研究について再考するといった内容の本になっている。本書の特徴を上げるとすると、やはり編著者が哲学者の井頭先生であるということだろう。個人的な印象であるが、質的研究というのが盛んに行われるのは主に社会学や心理学、政治学などの社会科学であり、人文科学である哲学において質的研究が俎上に載せられることはあまりないだろう。井頭先生の専門にはメタ哲学があり、哲学の方法論に取り組んでいる哲学者が社会科学の分野の方法論について検討するという面白い特徴が本書にはあると思う。本書は序章から第二章までがKKV論争についての概要と論点、その論点に対する応答とその応答に対する検討が行われている。自分はKKVを読んだことは無いけれども平易で読みやすく、下手にKKVを読むよりも有意義であると感じたし、これらの章だけでも本書は読む価値があると思う。以降の章では各分野の専門家がKKVをどのように捉え、応答するべきかについて述べられている。以上のような特徴から哲学に関心をある人には読んでみてほしい本ではある。

⑥の『The Philosophy of Philosophy』は現代分析哲学において最も権威のある哲学者の一人といっても過言ではない人によって書かれた哲学方法論・メタ哲学の本である。ウィリアムソン自身は序文で述べているように、本書のタイトルが「哲学の哲学」であるのはメタ哲学という単語は哲学の一分野というより、哲学一歩引いて上から見下しているようなニュアンスがあるからだそう。自分が持っているのは第二版のものでかなり分量があるが、日本にまだ本格的で纏まったメタ哲学についての書籍が存在しない以上、かなり読む価値が高いものであると思う。つまみ食いするような形で読んでいるので全部は読んでいないのだが、かなり参考になっている。読んだ中で個人的に面白いと感じたのは一章「The Linguistic Turn and the Conceptual Turn」と九章「Widening the Picture」。一章「The Linguistic Turn and the Conceptual Turn」は言語論的転回とそれを踏襲した概念論的転回とは何であり、それに対する批判を与えるというものであった。前にGreg Frost-Arnold「The Rise of ‘Analytic Philosophy’: When and How Did People Begin Calling Themselves ‘Analytic Philosophers’?」を読んだのだが、この論文と本章はかなり関連性が高く相補的であるように思える。その論文では分析哲学という語と表現はいつ誕生し、普及したのかということが述べられていた。そしてその論文内では「「分析哲学」についてのもっともらしい定義付けは、偽陽性偽陰性という暗礁に乗り上げてしまい、満足行くものを与えられていないことが明らかになっている」として分析哲学という語の問題性について取り上げられていた。例えば、論文内でデリダ分析哲学者であることを自称していることが挙げられており、本章ではデリダの他にラッセルが挙げられていた。この他にもウィトゲンシュタインなんかも挙げられると思う*1。論文内で定義づけの問題について深掘りされることはなかったが、本章は「分析哲学とは言語論的転回にコミットしていること」という最も代表的ともいえるような定義付けとそれに追随して派生した概念論的転回に対する批判を行っている。Frost-Arnold論文で述べられていることだが、確かにカルナップやムーアなど全く毛色の異なる哲学を行っている者たちが一つのグループに集約されて総称されている、しかもその総称にたいして多くの人が全く疑問に思っていないというこの状況は非常に奇妙なものであると思う。そして九章「Widening the Picture」は特に三節の「Model-Building in Philosophy」が興味深かった。この節でのウィリアムソンのは、ワイスバーグ『科学とモデル』に依拠して哲学も科学と同様にモデル構築をするべきだと論じ、モデル構築を哲学の主要な方法論として位置づけることを提案している。いわばこれは哲学の理論的探求の主要な部分は、探求対象となる世界や実在の一部を抽象したモデルを構築することとして捉えられる。こうした哲学観は、分析哲学において自然主義という立場が広く受容された結果であるのだと思う。こうした主張について今年の哲学者若手フォーラムでこのことについて論じた発表があった*2。この報告では、ウィリアムソン的なアプローチが哲学において第一義的な方法論として受容されたならば、「こんにち一般的な、哲学とはアーギュメントの構築と評価を中心として営為であるという(分析)哲学観は、もはや維持しえないかもしれない」と述べている。こうした結論はかなり興味深いものではあるが、個人的な考えでは仮にそのように受容されても、もはや分析哲学の手法として受け入れられ、分析哲学というラベルの消滅は起きえないように思える。というのも先程見たように、分析哲学というものの定義付けは非常に曖昧で、恐らく時代によって定義や認識も大きく変化していくものであるように思えたからである。しかし、こうしたモデル構築としての哲学というものは開拓され始めたばかりであり、有効かどうかは半世紀後にわかるだろうとウィリアムソンが述べているように、結局は研究の動向を見続けるしかないのかもしれない。

⑧の『言葉が呼び求められるとき』は現代の専門化がすすんだ分析哲学において、ウィトゲンシュタインと日常言語学派を復権させようという試みを持った本である。分析哲学において、ウィトゲンシュタインという人物はなかなかに癖が強く、厄介な人物であると個人的には思っている。分析哲学に取り組んでいる人は、ウィトゲンシュタインに対して大好き大嫌いかで大きく反応を二分できると思う。ちなみに私は元々は強い関心があったものの現在は好きではない。著者のバズは実際にウィトゲンシュタインが、分析哲学者の間で敵意や軽蔑にさらされていたのをよく耳にしたらしいし、バズ自身はそのような敵意は不当だと考えているようである。自分も院の説明会で分野の第一人者的な人と話す機会があったのだが、そこでその人物がウィトゲンシュタインに対する軽い軽蔑のような発言をしていたのを覚えている。本書は全体的に専門性が高く、読むのが非常に骨が折れたし内容も理解しきれているのかは非常に怪しいので来年しっかりと再読したい本でもある。個人的にはやはり三章の直観に関する議論と四章と五章の文脈主義に関する議論が興味深かった。

⑩の『分析哲学を問い直す』は雑誌なのでこのリストの中に含めていいのかが分からなかったが、あまりにも良すぎたので入れた。哲学方法論についての論文が中心的に纏められており、個人的なお気に入りは飯田論文、鈴木論文、倉田論文、納富論文。他の一ノ瀬論文や大谷論文、飯塚論文も興味深く、いわば捨て論文がなく非常に参考になった。今年の読書は主にこれらの論文が土台となっていると思う。

 

以上が今年の10冊であった。この他にも

あたりも非常に良かった。来年は

あたりは読みたい。こうしてみると主に勁草書房と春秋社と青土社、それと大学出版くらいしか分析哲学系の書籍は刷ってないんだなぁと感じる。