白川晋太郎『ブランダム 推論主義の哲学』(2021)

白川晋太郎『ブランダム 推論主義の哲学:プラグマティズムの新展開』青土社、2021年

最近は『ストレンジャー・シングス』を見ていた。周りの人によく勧められてたので見てみたのだけど非常に面白い。ジャンルとしてはSFホラーで、徐々に真実に近づいていく感じが非常に良い。ところどころHR/HMの楽曲やレコードが使われていて、そういう観点からも親近感を覚えた。シーズン4の9話なんかは特に。メタルリスナーは多分みんなビリーとエディが好き。ゾンビ映画にはニューメタルの楽曲が採用されがちなので次はそこらへんを開拓しようかなぁ。。。

そんなこんなで、今回はハロウィンの武道館の物販の待機列に並んでいる際に『ブランダム』を再読しきれたのでそれについての感想を簡単に書こうと思う。ハロウィンの物販、かなり酷くて会場でブチギレている人見かけたりTwitterで話題になっているくらいには色々と物議を醸していたけれども、公演自体は非常に良かった。憧れのカイ・ハンセンを見ることができたし熱唱しまくれて楽しかった。なんだけど物販でブチギレていた人もEagle Fly FreeやPower、I Want Outとかを熱唱してるのを想像すると面白すぎる。ハロウィン知らない人は取り敢えずEagle Fly Freeを聴こう。『Keeper of the seven keys Pt.Ⅱ』は名盤。

感想

推論主義はいわば言葉の意味というものを推論の中で果たす役割として描写する立場である。朱喜哲先生の新刊(『〈公正〉を乗りこなす:正義の反対は別の正義か』)では、言葉の意味をその言葉が、他の言葉との間に持つ関係によって説明する立場、みたいな感じで説明されている。ブランダム自身、どうやら推論主義という立場を取るのはこの立場を取ることによってどのような意味理論が構築できるのかという野心的なものであるらしい。少なくとも反表象主義、合理主義、言語的プラグマティズムというものを重視するのであれば、推論主義は実際に魅力的な立場であるのだと思う。クリプキやローティ、デイヴィドソンなどのような正統派の言語哲学をバックグラウンドにその延長上で成立した立場であるので当然といえば当然ではあるが。

個人的に推論主義の中で面白いと思う箇所はコミットメントやエンタイトルメントであった。こうした同意し、責任を伴う、または資格に注目する視点は少なくとも分析系の言語哲学の枠組みの中ではあまり見られなかった主張であると思う。サールやグライス、ストローソンのような日常言語学派にはもしかしたらそのようなことを主張していた人物がいそうではあるが、個人的には新鮮で非常にハッとさせられる視点であった。

推論主義という立場は様々な社会的な事象についても応用ができそうなものでもあるので、そこも強みなのだと思う。本書では精神病理、フィクション、社会制度についての応用例が提示されていたが、レイシズムジェンダーのような問題にも応用できるだろうし他にいくらでも考えられると思う。少し前、分析哲学は言語論的転回から社会的転回に転じている、というような旨の記事を読んだ*1。記事でも軽く触れられているが、言語論的転回それ自体はとうの昔に終わっている(ウィリアムソンにいわせれば概念論的転回も?)。そしてフリッカー『認識的不正義』であったりカペレン&ディーバーの『バッド・ランゲージ』なんかを読むとそのような社会的転回は現に起こっているのだろうと感じる。その記事の中でブランダムは言語論的転回の系譜に位置する人的な程度のニュアンスで扱われていたが、推論主義は社会的転回に踏み出せるポテンシャルは持っているようには本書を読んで思えた。自分は分析哲学に対して、いわば象牙の塔に籠もったような学問であるという印象を持っていた。もちろん、言語学におけるオースティンやグライスの立ち位置であったり、科学哲学や心の哲学など、他学問と一切交流がないわけではないが、主な研究伝統においては分析的アプローチを他分野に応用してやろうというようなスタンスはあまり積極的に取られていなかったと思う。同年代の構造主義ポスト構造主義などの大陸哲学と比べるとより一層そう感じられる。このような他分野への応用が積極的に取られるという傾向があることは良いことであると思う。

ただ反対に、このような哲学の限界を感じる部分はあった。世界そのものに応答することができるか、という問題は推論主義の大きな課題であるのだろうが、推論主義がこの問題を超克することは非自然主義を取っていることもあり、非常に困難なものであると思う。この問題を答えるために1章割かれていたが、個人的にはあまり納得できていない。メイヤスーはカント以降の哲学の殆どは相関主義に陥っており、世界(存在)そのものに応答することができないと批判したが、この批判はブランダムにも当てはまるのだろう。その点についてはトマセロやミリカンのように自然主義的アプローチを取り、言語を解明するという立場の方が非常に有利でありつつ魅力的な立場であるのだと思う。

おわりに

この著作を前回読んだのは奇しくもメガデスの武道館のときであった。おおよそ半年前になるのだが、当時は7章以降がピンと来なくあまり理解できていなかった。ただ認識論などを勉強し直した今だと案外躓くことなく理解することができたので、勉強した成果が出ているのだと実感できてよかった。この青土社の白い装丁の哲学者の解説書は明記こそされていないが実質的に一種のシリーズになっていて、今のところどれも良書だと思う。しかも分析哲学のものが多く、フッサールのものもフレーゲやダメットが絡められながら紹介されていてありがたい。次巻以降はデイヴィドソン、ダメット、ハッキング、デネット、ウィギンズ、ウィリアムズ、マクダウェルあたりなんかはある程度の需要はあるだろうし密かに期待している。欲を言えばウィリアムソン、カペレン、ミサック、ザグゼブスキあたりなんかも出して欲しい。それはそうと推論主義は個人的に興味深い立場であるので、今後とも動向を伺いたいとは思った。一先ず白川先生の論文はオープンアクセスのものだけでも読むべきであるだろう。

次回は書きたいのは本書と関係があるもので言うと『推論主義序説』『ルールに従う』『真理と正当化』『哲学のプラグマティズム的転回』あたりが候補。言語哲学関連だと『言葉はいかにして人を欺くのか』『言葉が呼び求められるとき』あたり。他には『真理・政治・道徳』『Philosophy of Philosophy』『メタ倫理学の最前線』『認識論を社会化する』『エンタイトル』『分析フェミニズム基本論文集』あたりが今は読みたい。あとは復刊したオカーシャの『科学哲学』や疑似科学かどうかで話題のIITについての『意識はいつ生まれるのか』なんかも。これとは他にいまゼミでマンの『ひれふせ、女たち』を、読書会でメイヤスーの『有限性の後に』を読んでいるので記録やメモとしてその2つは簡単にでもまとめたいと思っている。