ケイト・マン『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』小川芳範訳、勁草書房、2019年〔原著:Manne, K. (2017). Down Girl: The Logic of Misogyny. Oxford University Press.〕
マンの『ひれふせ、女たち』をゼミで輪読することになった。これはその担当箇所のレジュメにあたる。マンの著書を実際に読んでみた所感というのは、色々な観点からも読みにくい部分があるものの学びが非常に多いということだ。ゼミの教授がマンを読んでから子供と一緒に学校で流行ってるアニメを見ていたらしいのだが、途中から作品に潜むミソジニーを探し出そうとしてしまいまともに楽しめなかったと冗談交じりに言っていた。実際に自分もマンの著作を読んでからこのような経験をしているし、フェミニスト哲学を学ぶ意義はそういうところにもあるのだろうとも思う。
フェミニスト哲学は今のところスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』とフリッカーの『認識的不正義』くらいしか読んだことがないのだが、両著作とも想像以上に面白く、今のところ卒論で扱いたいと思っている。ただ正味スピヴァクの方は読んだのもかなり前で哲学史に関する事柄も殆ど知らない状態で読んでたので、なんも覚えてないければそもそも理解すら怪しい部分が多く、改めて読み直したいと思っている本である。フリッカーの方は、社会言語学や社会心理学などとも関係が強いということを感じたことや系譜学的なアプローチにも興味を持ったということを読んでいた当時に感じた。また前に取上げたメタ倫理学とも密接に関わっており、今回のマンの著書とも結び付けられそうであるので今一番再読したい一冊でもある。他のフェミニスト哲学で興味のある本は今のところ同じくマンの『エンタイトル』や『分析フェミニズム基本論文集』あたり。『エンタイトル』はタイトルと目次だけの判断だけど、推論主義とも結び付けられるかもしれなくて面白そう。
◇ミソジニー的敵意の諸相(p.102-103)
- ミソジニー的敵意は、処罰的、抑制的、警告的機能を果たし、人間一般や標的とされる女性にとって不快なものであれば何でも構わない。
- 一般化するならば、侮辱的に成人を小児に、人を動物や単なるモノに比するという行為を指す。
- 特定の文脈において相手を否定し軽蔑するような様々な形式の態度が存在する。
- マンの見解によると、女性はほぼ例外なく何らかの「発信源」からの何らかのミソジニー的敵意に対して脆弱な立場に置かれる。・・・①
- 以下では、ミソジニーがどのように機能するのかについて、特に日常的な社会的規範を強要するメカニズムに注意を向けながら考える。
- ミソジニーは極めて不可解に映る特殊な心理的態度というより、むしろ一般的に家父長制秩序の施行と再確立、それへの挑戦に対する抵抗に関わる。
- 嫌悪感情はそういう社会的プロセスに由来すると同時にそれを補強している。
- 換言すると、こうした種々の「ダウン・ガール」行動は、おそらくは願望に基づく思考や、意図的な否認の結果として以外、女性が通常どのように見られているかを反映しないのかもしれないということ。動的で能動的な、力づくの戦略。
- ミソジニストは、女性が「身分不相応な考え」を持つように見えたら、相応の場所に押さえつけようとする。
- 個別行為主体のミソジニーは、信念というより欲求、つまり、世界が家父長制秩序に整合的であり続けるか、さもなければそうなることを要求するような心的状況に関わっている。
◇ミソジニーの認識論(p.104-105)
- ミソジニーの認識論に関しては、次に挙げる二点の対照関係が重要。ある女性がミソジニーの被害を被っているという主張の真偽は、以下のようにして実証することができる。
- その女性について、似通った/ちょうど対応するような社会的地位にいる男性が同じ様な経験をすることはないということを明らかにすること。
- そうした敵意がミソジニーの徴候や表出としてみなされるためには、女性への待遇がジェンダー的な側面で際立っていればそれで十分である。
- また、可能世界論(や反事実条件文分析)に訴えることによっても実証できる。
- 家父長制的性質を有する規範や期待の存在しない世界であったら、同じような性質を持つ人がそうした敵意に直面することはないことを示す。
- その際に、「シス男性が妊娠したら」のような社会的に現実からかけ離れた可能世界を想像しても役に立つ土台は提供されない。道徳的に平等な扱いを受ける権利を万人に認めてくれる世界を想像するほうが有益である。
◇傾向性としての(潜在的)ミソジニー(p.105-106)
- マンの議論の特徴として、意図的に傾向性または傾向性の概念に訴える点がある。
- ある社会的環境が真正の意味でミソジニー的と判断されるには、その時点で、誰に対してもいかなる否定的態度や行動を発言していなくても構わないということ。ある種の反事実条件文が成立すればそれで十分に成り立つ。
- ミソジニーは潜在的で、潜伏状態にあることも可能である。
- では社会環境がミソジニー的であるということを知る方法はあるのだろうか?もしも現時点において、ミソジニー的な敵意や攻撃性を女性が経験することがほとんどなく、ただ単に歴史的に女性が下位の社会的役割を担うよう極めて狡猾に追いやられてきたというだけなら、どのようにして社会環境がミソジニー的であると判断できるのか。
◇システム的なものとしてのミソジニー、そしてそれ自身が(はるかに)大きなシステムの一部分であるミソジニー(p.106-107)
- 否定性の現れ方とジェンダーの現れ方について、その裏側も検討することは重要である。
- ミソジニーの主な現れ方は「悪い女性」を罰することと女性の行動の監視にあるが、処罰と報酬のシステムは例外なく全体に機能している。
- この説明の構造的特徴について考えることで、ミソジニーはジェンダー役割への遵守を執行するやり方すべてと連続しているのだと考えられる。
- ジェンダー役割の規範と期待に答える女性は報酬を与えられ、祭り上げられるという側面にも注目すべき。
- 男性性についての規範を軽視する男性に対する監視と処罰についての検討の必要性。・・・②
- 女性に対して支配的な男性が恩恵に浴することの多い、肯定的または免責的な態度と行動を軽視するわけにもいけない。・・・③
◇この分析はミソジニーの根底にある道徳的特徴を明らかにする(p.107-108)
- マンの議論のもう一つの特徴として、一見すると全くそう見えないかもしれないようなミソジニーの事例を取り込むことができるという点がある。
- 急進的な社会運動の展開を受けて生じるようなミソジニーやより抑圧的な社会状況の下で生じるようなミソジニーなど。
- それらの事例に共通し、根底にある道徳的特徴を明らかにすることができる。
- バングラデシュにおける「アシッドアタック」事例
- 最も一般的なのは、婚姻の拒否、性交渉の拒絶、交際の拒否を理由に、女性に対し強酸による攻撃を仕掛け、被害者に重篤な火傷を負わす。
- 嫉妬や復讐心から被害者女性に傷を負わせ、容姿を醜くすることがその動機。
- ムリデュラ・バンドパディアとM・R・カーンによると、「拒絶に反応して起きる攻撃は、その拒絶について女性を罰し、その女性からから彼女のもつ社会的・性的資本を剥奪する」という。
- アシッドアタックは、女性の男性への極端な依存関係を強調するとともに、男性支配に抵抗する多くの女性に対する警告として機能する。
- マンの分析に従うと、これは明らかで深刻なミソジニーの実践といえる。
- アシッドアタック事例とエリオット・ロジャーの銃乱射事件の間には、精査されるべきレベルで構造的類似性が存在している。・・・④
- ミソジニーは我々とは無縁の後進国における話に過ぎないという人種主義的なステレオタイプは、そのことを覆い隠している。
◇ミソジニーの存在はミソジニストの存在とかならずしも結びつかない(p.108-110)
- マンの説明はミソジニストと呼ばれるに値するに個別行為主体が存在することを明確に肯定している。
- ミソジニーを理解する上で、「腐ったリンゴの法則*1」的構造は誤り。
- マンの説明によると、ミソジニストとはその行いをもってミソジニストとされる。
- ミソジニストとは、ミソジニー的な社会環境への「貢献」において、一貫した「オーバーアチーバー」の謂われに過ぎない。
- ミソジニストとは、その信念・欲求・行動・価値・直観・忠誠・期待・言葉遣いなどに関して、ミソジニー的な社会環境に甚だしく影響を受けてきた人。
- マンのアプローチは誤りと考えられる以下の2つの両極端の考え方を回避できる。
- 行為主体と社会構造の双方に、また、物質的現実のうちで両者が密接に関係し合う複雑なあり方に注意を払う必要がある。
- 社会システムや社会環境、そのうちに生きる特定の人々に対して、特定の雰囲気もしくは「風土」を持つようなミソジニーの存在に注意を払う必要性もある。
- これに対しては、「態度」に関する言葉を用いて記述する必要がある。
◇男のものでない島(p.110-113)
- マンのミソジニー分析に従えば、ミソジニーについてのフェミニズム診断に対しての反論の多くは誤った対照を根拠になされているため、その多くは効力を失っているといえる。
- ある男性が自己愛的または妄想的であることと、これがミソジストであること、つまり一貫してミソジニー的な社会的力を伝達する人物であること
- ある男性が傷つきやすく、自分に自信が持てないことと、彼がミソジストであること
- ある男性が他の男性に攻撃を仕掛けるような人物であることと、彼がミソジストであること
- ミソジニーは典型的には暴力または暴力的傾向として表に現れるということ
- ミソジニーは直接的な教育を通じて文化に伝播されるということ
- 女性が社会進出することと、女性に対するミソジニー的攻撃が併存すること
- 「男は一人残らず胸の内にミソジニストを宿しているか?」という問い
- 「ミソジニー」を閾概念とするマンの定義によると、答えは「否」。・・・⑤
- さらに言えば、ミソジニストは男性である必要もなく、女性などもミソジニストになりうる。フェミニズムにコミットするような人々であっても、無自覚にミソジニー的行為に加担する可能性がある。
- そればかりか、ジェンダー中立的で妥当といえるような規範や道徳的義務を過剰施行し、その遵守を過剰監視するかもしれない。その結果、その規範から逸脱したと判定された女性に対して、同条件の男と比較した際に過剰に敵対的な反応を示すとしたら、それはミソジニーに相当する。
- このようなダブルスタンダードを伴った事例は数多く存在する。
◇疑問点や考察
- ①について、この「発信源」というのは何を指しているのか。ミソジニストの脳裏にいる女性全員のこと?
→ミソジニー的な行為をしている人やアート、構造物や環境などが含まれる
- ②、③について、主に本文では具体的にどういうものなのかが扱われていないためなんだかよく分からない。②については言わば「オカマ」や「オネエ」の人に対する監視や処罰のこと? ③は少し考えてみたがそのような実例が特に思い浮かばなかった。
→②は他にも、外で働かない男性(いわゆる弱者男性も?)、ヒモ、プー太郎なども含まれる。③については第六章を読むしかない。
- ④について、アイラ・ヴィスタ銃乱射事件とアシッドアタックの類似点としては、女性からの拒絶や拒否が動機の理由となって他者、主に女性を傷つけるという構造がある。
→アイラ・ヴィスタの銃乱射事件やアシッドアタックがミソジニーがあからさまな実践であるとどうしていえるのか。
→マンの議論の進め方が悪い。マンの定義を見た後にこれらの事例を見るとミソジニーの実践であるといえるが、ミソジニーの素朴理解に基づくとこれらはミソジニーの実践であるとは言い難い。(女性に対して婚姻や性交渉を迫るなどの行為は女性蔑視・女性嫌悪の実践とは矛盾しているのではという素朴理解の観点から)
- ⑤のについて、閾概念とは何であるのか。
→第二章の訳注参照。
*1:集団内における腐敗した人物、または邪悪な人物からの悪影響を指すメタファー。