Cappelen, H. (2012). Philosophy without Intuitions. Oxford, GB: Oxford University Press UK.
夏休みに突入し、前々から読みたかったカペレン先生の哲学方法論についての本を読んでいる。とりあえず1章まで読んだのでその内容を復習がてら纏めてみる。タイトルを訳すとすると「直観なき哲学」といったところだろうか。「直観なき哲学」というタイトルから勝手に実験哲学について書かれたものを想像していたんだけれどもどうやら違うらしい。ただ、本書と実験哲学は分析哲学における直観を批判的に検討していくという点で両者の関心はあらかた共通しているように思う(最も立場的にもアプローチ的にも両者には大きな違いがあるが)。あと、内容とは全く関係ないが装丁が非常に綺麗。後期ヴィクトリア朝の画家であるウォーターハウスによって描かれた絵画らしい。
1章 哲学における直観の外観と分類
どうやら、ワインバーグ(Weinberg, 2007)の一節がこの本のタイトルの由来であるようだ。
It can seem that analytic philosophy without intuitions just wouldn't be analytic philosophy. (Weinberg, 2007: 318, emphasis added)
現代分析哲学において証拠として直観に大きく依拠しているという主張は、メタ哲学的な議論において普遍的に受け入れられており、またそのことが分析哲学者としての自己認識について顕著に現れている。哲学は事例を構築し、その事例について直感的判断を下すことを必要するということが考えられる傾向がある。第一章では、直観が現代哲学において果たす役割についての誤った想定が外観され、それを注意深く評価することに伴う少なからぬ困難について紹介される。
分析哲学における直観
まず、分析哲学の歴史において「直観」という概念が根本にあるということが説明される。例えば、ウィリアムソンは「直観」は現代分析哲学の自己理解において重要な役割を果たしているといい、ゴールドマンは科学の方法論と哲学の方法論の違いとして、直観に依存することを広範囲に認められているということが違いであると考えている(Williamson, 2007: 215; Goldman, 2007: 1)。ウィリアムソンやゴールドマンの言うような哲学観は哲学者の間で幅広く支持されている。そこでカペレンは直観を支持する哲学者グループを「中心性(Centrality)」と定義する。
中心性:現代の分析哲学者が、哲学的理論のために、証拠やその理由として直観に依拠しているというリサーチ・プログラム
本書の目的は以下の2つにまとめられる。
- 中心性をどのように解釈するのかを明らかにすること
- 中心性というものが間違っているということについて議論すること
2については、すなわち、哲学者が哲学をする際、一般的に直観を証拠として依拠することは、「直観」「依拠する」「哲学」「証拠」「哲学者」をどのように解釈しても真実ではないということである。
カペレンによると、現代の方法論的な議論においてその参加者は、共通の足場として中心性というものが含まれており、多くのものが直観に基づいた哲学に賛成しているという。
「中心性」についての議論の二分
このように、中心性について議論することは有意義なものであるように思われる。しかし、中心性について記述する際の困難さに、中心性に依拠する論者がそれについての詳細な論拠を示さないことにある。例えば、中心性が重要な役割を果たすと考える哲学者やそれと対極に位置する実験哲学者の記述において、哲学者が直観に頼るべきだという主張の根拠や理由を一切提示していないということが挙げられる。多くの文献では、哲学者が直観に依拠することは些細なことであり、自明のことであるとしている。
カペレンはこうした事例から、この種の議論には暗黙のうちに2つのものが想定されているとする。
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「直観的」についての会話からの議論(Argument from 'Intuitions'-Talk: AIT)
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哲学的実践からの議論(Arugument from Philosophical Practice: APP)
本書の第Ⅰ部はAITについて、第Ⅱ部はAPPについて描かれたものである。
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「直観的」についての会話からの議論
一部の哲学者が中心性へと傾倒しているのは間違いないが、それはその一端として「直観的」という語や同義語を乱用しているからである。あらゆる文献に「直感的」という語やそれの同義語が散見される。そのことが、中心性の支持者を正当化し、哲学者が直観に依拠しているということを示す証拠になっているのだろう。
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哲学的実践からの議論
直感的判断を持っていると考える一連の特徴(例えばF1,...,Fn)を中心性支持者が指定し、次に哲学者が議論の中心点で依拠する判断がその特徴(F1,...,Fn)を持っていることを示す。つまり、どのように「直観」を哲学者が用いるという点ではなく、哲学的見解を論証する実践において、哲学をどのように行うのかという特徴について焦点を当てる。実際の哲学的実践は以下の通りである。
- 事例の方法(The Method of Cases)
- 安楽椅子的営み(Armchair Activity)
- 概念分析(Conceptual Analysis)
- 議論の出発点としての岩盤(Rock-bottom Starting Points for Arguments)
(1)事例の方法についてカペレンは次のように定義する。
事例の方法:Xを哲学的に重要なトピックとする。TがXに関して優れた理論であるのは、Xに関連する事例(実際の事例、仮定の事例かは問わない)について、我々の直観を適切に予測できるときに限る。
直観が事例の方法の中心に位置し、事例の方法が現代の哲学者の主要な手段であるとすれば、中心性についての強い証拠であるということになる。
(2)続いて安楽椅子的営みについてだが、これは哲学者は一般的に実験や実証的研究に従事しないということが受け入れられている仮定に基づいている。これが正しいとしたら、では哲学的知識はどのようにして「安楽椅子から」獲得されるのだろうかという疑問が湧いてくる。その答えとして直観が持ち出されることがある。すなわち、直観は、我々が安楽椅子に座ったままでいられるように、理論化するためのア・プリオリな出発点を提供するということである。
(3)こうした哲学を安楽椅子的活動として見なしている人々の中には、哲学者は主に因果関係や意味、正義といった概念分析に従事しているため、哲学はそのような活動であると考える人もいるこうした見方には、概念分析に従事する適切な方法は直観に訴える事によってであるという想定が伴っている。
(4)上記の(2)と(3)を支持することなく、直観を支持する哲学者が大勢いる。彼らによると、直観はそれ自体に証拠を必要とすることなく、他の主張の根拠となるものである。すべての議論には基礎となる出発点、すなわち、他の正当化の対象とならない前提が必要であり、彼らは哲学における出発点が直観であるという点に哲学の特徴がある考える。「直観がなければ、哲学は成り立たない」、こう考える哲学者の一部は、哲学者はア・プリオリな概念分析に従事していると考えているゆえにのように考えているが、直観が重要な一種の特権的な認識的地位を有していると考えるのに、そのようなコミットメントを持つ必要がない。
中心性を支持する哲学者の多くにとって、以上の4つの実践は密接に結びついている。(2)を支持する一部の人々にとって、他の3つはある程度自然に導かれる。しかし、中心性の支持者全員が(1)~(4)のすべてを支持しているわけではなく、各要素はさまざまに解釈することができる。
明らかにAITは、哲学を行う実践の一部であり、以上の議論の二分化はやや人為的である。多くの場合、実践が直観に依存していると仮定されるのは、そのような活動に従事する人々が「直感的な会話」を乱用しているからではないだろうかとカペレンは疑っている。また、このことが示すのは、AITが失敗すれば、APPに重大な影響を及ぼすということである。
中心性における「直観」
カペレンは「中心性」というものを事実上一連のテーゼのラベルとして使用しているという。中心性という語のさまざまな解釈を検討することによって、中心性の説明を創り出すことができる。ここでは、中心性を擁護者によって与えられたいくつかの用語の意味を外観し、中心性にとってより問題となるいくつかの代替となる解釈を対比する。
中心性を支持する人々は「直観」が示すものについて一様の同意が得られておらず、中心性がどのような言語で形式化されているのかについてさえも充分に同意が得られていない。英語によって定式化が起こると考える者もいれば、「哲学者の英語」という特殊な個人言語として考えるものもいる。こうした直観理論の分類は多種多様な方法で行うことができるとカペレンはいう。中心性の支持者を含む多くの哲学者は、「直観」を心理的な状態や出来事としてみなしている。このような考えを持つ人々は、2種類に分類することができる。直観を特別な心理状態として見なすものと、直観を他の心理状態の種類のうちの部分集合として見なすものである。
特別な心理状態としての直観
例えば、ジョージ・ビーラーによると、直観は心理状態は特別な地位にある、すなわち他のどのような種類の心理状態でも還元することができないということである。彼は、たとえ行為者Aがpと信じることがないとしても、Aはpという直観を持つことができ、pという直観を持つことなくAはPを信じることができる。そしてさらに言えば、pという直観は、pという推測、pという即断、pを信じる(または感じる)傾向とも異なっている(Bealer, 1998: 208-10)。ビーラーは直観に関する否定的な特徴を豊富に提供するが、肯定的な面については特別な地位にあること以外あまり語らない。ビーラーが肯定的な特徴付けに最も近づいたのは「知的思われ(intellectual seemings)」と彼が呼ぶものに訴えたときである。
知的思われ:tにおいて、Sが合理的にpと直観するのは、tにおいて必然的にSが知的にpと思えるときかつそのときに限る。
しかし、知的思われというものについて何も語られていない。同様の考えを持つジョエル・プストも純粋な知的経験というものについて語らない。おそらく我々は、それらについては知人を通じて知っていることになっている。
信念あるいは信じようとする傾向としての直観
直観は心理的な状態や出来事であると考える人の一部には、直観についての還元主義を取るものもいる。ヴァン・イワーゲン、デイヴィッド・ルイス、ティモシー・ウィリアムソンなどの一部の顕著な哲学者は、いくつかの信念や信じようとするべき傾向を示すものとして「直観」をみなしている。これは「直観」が示すもの全ての理論の中で最も自由なものである。その他の還元主義や消去主義は、信念や信じようとすべき傾向の特定の部分集合を示すものとして「直観」をみなしている。この部分集合は、以下の4つのうちの特徴を一般的には一つ以上持ち合わしている。
- 特別な現象学を伴う信念(Beliefs accompanied by special phenomenology)
- 特別な種類の正当化を伴う信念(Beliefs with special kind of justification)
- ある種の内容を伴う信念(Beliefs with a certain kind of content)
- ある種の病因を伴う信念(Beliefs with a certain etiology)
AIPの機能について、以上のカテゴリーではカバーしきれず、また中心性の支持者らが念頭に置いていない2種類の見解がある。
- 文脈依存性としての「直観的」('Intuitive' as a context-sensitive term)
- 非事実としての「直観」('Intuition' as non-factive)
中心性の解釈する方法についての詳細
中心性の解釈について、強調しておくべき問題が5つある
- 中心性と証拠と証拠の源との間の区別(Centrality and the distinction between evidence and sources of evidence)
- 中心性と証拠の哲学的理論(Centrality and philosophical theories of evidence)
- 規範的主張としての中心性と記述的主張としての中心性の対立(Centrality as normative claim vs. Centrality as descriptive claim)
- 総称としての中心性(Centrality as a generic)
- 中心性と哲学的例外主義(Centrality and philosophical exceptionalism)
(1)中心性を説明する際に、哲学者は直観を証拠として依拠するのか、証拠の源として依拠するのかどうかについての問題。カぺレンは、この区別はある時点では重要な役割を果たすが、そうでない場合には、単純化のために「証拠としての直感」のみを語ることにするとした。
(2)認識論と科学哲学における中心的な問題は証拠の性質についてである。
(3)記述的主張とは、哲学者が実際問題としてどのように哲学を行うかについて述べたものであり、その実践を注意深く研究することによってのみ検証することができる。規範的主張とは、哲学がどのように行われるべきかに関わるものであり、規範的に解釈された中心性の真理と両立するものである。この著作における中心性の解釈は前者のものである。
(4)上で紹介した中心性の様々な定式化は、哲学者が何をするのかについて語っている。「FsはGsである」という形の主張は一般性(総称)と呼ばれ、この形の主張は解釈が難しい。すべてのFsがGsでなくても、「FsはGsである」は真になりうる(cf. Cappelen & Dever, 2019 Chap.8)。許容される例外のパターンについては議論があり、総称の理論における中心的なトピックの一つである。中心性の一般的な要素はそれを評価することを難しくし、その支持者に広い自由度を残している。カペレンは明確な主張がない場合は「中心性」の一般的な要素を哲学の特徴に関する主張として扱うことにする。
(5)中心性とは哲学者に特徴的なものについての主張であるため、すべての知的活動、あるいは知的活動の非常に広い領域についての普遍的な主張の実例として解釈されるべきではない。そうでない場合、この著作で解釈されているような中心性は損なわれてしまうだろう。ウィリアムソン(Williamson, 2007)は、「哲学的例外主義」という観点から、関連する指摘を行っている。本研究で対象とするのは、中心性を支持し、それを哲学的例外主義の一例として解釈する哲学者たちである。その結果、直観の重要性を主張する議論を評価する際には、その範囲を把握しておくことが極めて重要であることが判明する。すべての知的活動が証拠としての直観に依存していることを示し、その帰結として中心性を導き出すような議論は、中心性の支持者がどのように中心性を提示しているかを考えれば、受け入れられるものではないだろう。
中心性の目下の問題
中心性を支持するに当たって、以下の2つ問題が非常に重要な争点である。
- 直観とは何か
- 直観は哲学的理論の証拠となり得るのか
カペレンはこれらの問題に明確な回答がない場合、現代の分析哲学は占いと何ら変わらないのだと主張する。中心性の支持者は、「熱狂派(the enthusiats)」「悲観派(the pessimists)」「懸念派(the concerned)」の3つに大別できる。
熱狂派は中心性を良いもの(a good thing)と捉え、直観は哲学のための良く(good)、強固な(solid)基礎を提供できるのだと考える。この立場は、主にビーラー、ソウザ、ゴールドマン、限定的であるがチョムスキー、ゲーデル、ロールズなどに代表される。
悲観派は中心性を受け入れた上で、直観は哲学にとって悪い知らせである(bad news for philosophy)と結論づける立場である。彼らは直観を、哲学的な主張の証拠として強固で信頼できるものとして考えていない。この立場には主に、スティッチやワインバーグといった実験哲学者に代表される。
懸念派は中心性を受け入れた上で、直観は哲学において重大な役割を果たしていると考える。その上で直観への依存を懸念しており、また直観無しで哲学はどのようにするのかということがよく理解していない。そのため、直観とは何かを適切に理解するという研究プロジェクトが何よりも重要なものであるという点で、熱狂派や悲観派に賛同している。
中心性を拒否する
中心性を拒否すると以上の目下の問題は問題ではなくなる。中心性には多くの構成要素があるが、そのどれもが曖昧である。それにもかかわらず、カペレンはその構成要素は全て誤りであるという。そのためにカペレンはAIPとAPPの批判を行う。また、中心性というものは現代のメタ哲学の議論の中では広く受け入れられているものではあるが、普遍的に受け入れられているわけではない。カペレンはその例として、ウィリアムソン(Williamson, 2007)の「哲学的例外主義」への批判やマックス・ドイッチュ(Deutsch, 2009; 2010)による言語哲学における直観への批判*1を挙げている。
こうした中心性を拒否することによって得られるものは、メタ哲学という分野における開放であると言える。つまり、中心性を拒否することによって、ビーラーやプストに代表されていた構成要素である「方法論的合理主義(methodological rationalism)」を無視することができるようになり、実験哲学者が追求する類の研究も多かれ少なかれ、哲学的実践から全く無関係のものとなる。カペレンによると、方法論的合理主義と実験哲学は中心性へのコミットメントと一心同体であり、中心性の拒否によって両者とも瓦解する可能性がある。
中心性から開放された哲学はこれまでの哲学とは全く異なったものであると想定している。例えば、メタ哲学においては、特定の下位分野において生じた方法論的問題について取り組むことになるという。こうした問題は言語哲学や政治哲学などにおける研究と関係して生じるだろうとしている。哲学において、方法論的な議論をする第一哲学と特定の分野を研究する第二哲学を最も得意とする者の間には強い相関がある。中心性の支持は、こうした第一哲学と第二哲学を切り離されて行われることに繋がる。中心性を拒否することによって、方法論は特定の分野で行われている研究と直接的な関与を通じて行われるようになる。
そもそも、なぜいま中心性なのか?
ヤーッコ・ヒンティッカによると、1960年代初頭の分析哲学における研究伝統の中には、直観に依拠することについての明示的な言及や訴えはめったになかった。しかし1969年代中期以降からは、直観が哲学において重要な役割を果たしているという記述が現れだす(Hintikka, 1999: 127)。つまりより一般的に言うなら、「20世紀末から21世紀初頭にかけて、どのような伝統や影響が、中心性を、メタ哲学や哲学方法論について考える際にほぼすべての分析哲学者における共通基盤へと変えたのだろうか?」ということだ。
このことについて、カペレンは「直観」という言葉の乱用から始まったと考えているが、「直観」という語そのものの発生源については今のところ説明が上手くできないとしている。ヒンティッカ自身もその問いに答えており、ヒンティッカによると、チョムスキーの言語学とその方法論の成功にあるのだという。広範な概念によれば、チョムスキーのような生成言語学者は、能力のある話者の文法性に対する直観を、それらの話者が直観的に受け入れるとされる文字列のみを生成する生成的規則のセット、つまり文法を作成することによって説明していた。この種の方法論は、1960年代と1970年代におけるチョムスキーの理論の非常に大きな成功によって魅力的であった(ibid.)。こうした説明には興味深い点はあるものの、ヒンティッカはチョムスキーの言語学が分析哲学に与えた影響を深く検討していないという点で不備があるとカペレンは述べる。カペレンはこの他にもムーアやロールズの影響があるのではないかとも指摘する。
感想
まだ1章を読んだだけなので議論の詳細についてはまだ中心性についての整理という点が強く、具体的な批判はまだ表面的であったので読み進めるなりして勉強する必要があると思った。まずチョムスキーと分析哲学の関係についてだが、飯田(2022)のあとがき部分や、ハッキングの言語哲学の入門書(Hacking, 1975)にチョムスキーの解説が1章割かれているのを見るとチョムスキーと分析哲学はある程度関わりがあるように思える。
また「直観」という語の発生源についてであるが、ゲティア事例(1963年)、ブラウンソン事例(1963年)、トロリー事例(1967年)、フランクファート型事例(1969年)などと1960年代に生まれた有名な思考実験は確かに多いように読んでいて感じた。こうした思考実験が発端となって、「直観」という単語が使われ始めたのかもしれない。ただ、もちろんその前夜に当たるような時期にも箱の中のカブトムシ(1953年)のような有名な思考実験は存在してるし、それよりも遥かに昔から思考実験はあるが、思考実験が議論において中心的なものの一つとなるのは明らかに1960年代以降ではあるように思う。世界五分前仮説、水槽の中の脳、双子地球、メアリーの部屋、中国語の部屋、スワンプマン、哲学的ゾンビなどいまパッと思いついただけでも1960年代以降において頻繁に議論されていた思考実験はこれだけある。こうしてみるとやはり直観というものは分析哲学において重要な役割を果たしているように思えるし、単に「直観」という語の乱用が問題であるようには感じられなかった。以降の章でどのように哲学における直観がどのように誤っているか論じられるのかを期待したい。
あとはやはりウィリアムソンの著作は読まなければならないとは痛感した。ウィリアムソン、メタ哲学の他にも認識論、形而上学、様相論理とか至る所の文献にも頻繁に出てきて影響力の凄さを実感している。最近邦訳が出版されてきているけどいわゆる主著にあたるものはまだされていない。早く翻訳してくれ~~〜。それ関連で言うとヒンティッカって分析哲学の人だったというのを今回始めて知った。クリプキやカンガーと同時期に様相論理の研究をしたっていう印象しかなくて分析哲学とはほぼ無縁の人だと思ってたので意外だった。いま哲学方法論が流行ってるし日本語の概説書やら入門書があったら非常に便利なのだけれども一向にその類の本が出版される気配ないの非常につらい、、、
また、内容の感想からは逸れるが、普段本などを読むときに読書メモなどのようなものは取らないのだが今回始めてやってみた。なのでまとめ方の容量が掴めずなかなか苦戦したが、読み返す際は非常に便利なのだとは思う。纏めるという行為にどれほどの労力が必要なのか、ということがわかったのはかなり良かった。正味纏めるのが面倒臭かった部分は所々飛ばしてるので気が向いた時に加筆修正するかも。他にもニュアンスが取れてもそれを日本語に変換するのがいかに難しいかが実感でき、翻訳をするという作業の大変さが身に沁みてわかった。「'Intuitions'-Talk」とか「Intellectual Seemings」ってどう訳せばええねん。
今回、試しにはてなブログで読書メモ的なものをだらだら書いてみたが、そこまで書き心地は悪くはなかった。noteにしようか迷ったのだが、あちらはイタリックに変換できなかったのでこっちにした。次回以降書くとしたら“The Philosophy of Philosophy”、“Fixing Language”、“Ontology and Oppression”、『推論主義序説』、『真理・政治・道徳』、『徳は知なり』、『メタ倫理学入門』、『現代法哲学入門』あたりだと思う。
文献
- Bealer, G. (1998). Intuition and the Autonomy of Philosophy. In Michael DePaul & William Ramsey (eds.), Rethinking Intuition: The Psychology of Intuition and Its Role in Philosophical Inquiry. Rowman & Littlefield: 201-240.
- Cappelen, H. & Dever, J. (2019). Bad Language: Contemporary Introductions to Philosophy of Language. New York, NY: Oxford University Press.〔邦訳:葛谷潤・杉本英太・仲宗根勝仁・中根杏樹・藤川直也訳『バッド・ランゲージ:悪い言葉の哲学入門』勁草書房、2022年〕
- Goldman, A. (2007). Philosophical Intuitions: Their Target, Their Source and Their Epistemic Status. In Grazer Philosophische Studien, 74 (1):1-26.
- Hacking, I. (1975). Why Does Language Matter to Philosophy?. New York: Cambridge University Press.〔邦訳:伊藤邦武訳『言語はなぜ哲学の問題になるのか』勁草書房、1989年〕
- Hintikka, J.(1999). The Emperor’s New Intuitions. Journal of Philosophy, 96 (3):127-147.
- Weinberg, J. M. (2007). How to Challenge Intuitions Empirically without Risking Skepticism, In Midwest Studies in Philosophy, 31 (1): 318–343.
- Williamson, T. (2007/2021). The Philosophy of Philosophy, Wiley-Blackwell.
- 飯田隆『言語哲学大全Ⅰ:論理と言語』勁草書房、2022年
- 和泉悠「言語の実験哲学」鈴木貴之編『実験哲学入門』勁草書房、2020年所収
*1:日本語の文献においても簡単な紹介がされている。和泉(2020)を参照されたい。