佐藤岳詩『メタ倫理学入門』(2017)第Ⅰ部「道徳のそもそもをめぐって」

佐藤岳詩『メタ倫理学入門:道徳のそもそもを考える』勁草書房、2017年

夏休みはもう終盤に差し掛かる頃らしい。ベガスを見にジャイガとロッキンに行ったくらいしか夏休みらしい記憶はないけど、それだけでも十分すぎるほどだった。両日ともセトリは良かったし、特にロッキンの方は一緒に行った友達をベガスの沼に落とせた。Return to Zeroでスタート、Massive Coreで〆のパラパラを踊りまくれるセトリをもっと擦ってほしいし、武道館でも是非やって欲しい。そんなこんなで勉強もしなきゃなーってことでいまメタ倫理の本を読んでるのだけど予想以上に面白い。今のところ卒論でもメタ倫理を扱いたいし、院に行っても専門にしたくなるくらいのモチベーション。元々、倫理学は昔に中公新書から出ている品川哲彦の『倫理学』を読んだくらいであまり興味を持てなかった。今回メタ倫理学を勉強するに至ったきっかけとしては、なんとなく分析哲学を専門としている人にメタ倫理学を研究対象に挙げている人が直感的に多かったからであったのだけれども、実際に勉強するとその理由がわかったような気がする。一見興味がもてないように思える分野でも積極的に関わっていくのは重要なんだなぁと思った。

第一章 メタ倫理学とは何か

そもそも倫理学とは倫理学は以下の3つに分類される

規範倫理学は倫理規範を考える学問。功利主義や義務論、徳倫理学などが代表例。

応用倫理学は規範倫理学の成果を医療現場や環境問題などの社会的な場面に応用する学問。

メタ倫理学は上記の2つのそもそもの前提について検討する学問。善と悪とは何か、正しいとは何か、など。

メタ倫理学の役割
  1. 議論の基盤を整理し、明確化すること
  2. 道徳や倫理の概念を見直すこと

(1)道徳についての思考や議論について、前提のズレを整理・解消する方向へと向かわせることがメタ倫理学の役割であるといえる。例えば、道徳・倫理といったものが普遍的なものであると考える者と、文化差などによって差異が生じると考える者が道徳や倫理について議論した場合、その二者間の議論は噛み合わないことがあるだろう。また、前提を整理することによって相手の言い分の解像度を上げることができる。

(2)道徳や倫理を見直す場を提供するというのもメタ倫理学の役割であるといえる。メタ倫理学の仕事は、道徳・倫理についての考え方やその際に使っている道具の意味をあらわにして解きほぐすことであり、このことは視野を広げて先入観を解くきっかけを与え、や世界観に影響を与えることもある。

メタ倫理学で扱われる問題群
  1. 倫理における真理をめぐる問題群
  2. 倫理と判断、行為をめぐる問題群
  3. 倫理における諸概念をめぐる問題群

(1)ここでは以下のような問いが含まれている。

  • 倫理の問題に答えはあるか
  • 倫理的な事柄は普遍的か

倫理学者は、「倫理の問題に答えはあるか」という問題を真理をめぐる問題として議論してきた。一般に、倫理的な真理が存在するなら倫理の問題には答えがあると考えた。真理が存在しないなら、答えはない、ということになってしまうかもしれない。

「倫理的な事柄は普遍的か」という問題は倫理の真理をめぐる問題に関係しており、仮に答えがあるとしてもそれは一つなのか、人によって異なるのかといった問題である。

(2)ここでは以下のようなことが問われている。

  • 倫理的な判断とは何か
  • 倫理的な判断は人を動かす力をもつのか

「倫理的な判断とは何か」は、「人助けは善いことである」という発言に真理は存在せず、倫理の問いには答えが存在しないのだとすれば、この発言は何を伝達していることになるのか。ここから、道徳的な発言・判断が持つ意味とは何かということが問題となった。

「倫理的な判断は人を動かす力をもつか」という問いは、「倫理的な判断とは何か」という問いと結びつく。「倫理の問題に答えはあるか」を否定し、「倫理的な判断とは何か」という問題に取り組む人に言わせれば、「人助けは善いことである」という発言は道徳判断とは聞き手に人助けを勧めるためになされるものであるとか、話し手の姿勢の表現をしていると説明される。

(3)ここでは、以下のような問題が問われる。

  • 倫理とは何か

このような問題はメタ倫理学の中で最も基本的なものでありつつも、究極的な問題である。倫理とはいうほど重要なのか、なぜ非倫理的な行為をしてはならないのか、という問いに答えるには、倫理とは何なのか、という問いに答える必要がある。規範倫理学を行うのにメタ倫理学が必要なのと同様に、(1)や(2)で問われた問いに答えるにはこの問題に答える必要があり、この問いに答えるには道徳語がどのように使われるかを検討する必要があるため、(1)や(2)に答える必要がある。

第二章 メタ倫理学にはどんな立場があるのか

ここでは、「(1)倫理における真理をめぐる問題群」を中心にメタ倫理学の歴史的展開について触れられる。メタ倫理学の歴史は、哲学史がそうであったのと同様に、客観主義的な考え方、主観主義的な考え方、その両者を取り入れた考え方の3つが入れ替わるようなものであった。ここで主に扱われる立場は客観主義、主観主義、相対主義の3つである。

メタ倫理学の立場
  • 客観主義

メタ倫理学における客観主義とは、物事を主体と客体に分けた上で、価値や真理といったものを定めているのは客体の側にあるとする立場のことである。例えば、「このパソコンは日本製である」という客観的な性質があるのように、道徳を客体に宿る性質として捉える立場。この立場をとるメリットとしては以下のものなどが挙げられ、これらの利点は互いに関係しあっている。

  1. 道徳の普遍性
  2. 道徳的性質の安定性・確実性
  3. 道徳的問題に対しての回答性
  4. 道徳的判断の可謬性

(1)道徳は普遍的なものであり、あらゆる人の間に客観的で絶対的な道徳が共通して存在していると考えられる。

(2)道徳という性質が客体に属している以上、対象の側に何らかの変化が生じない限りそれは安定した確実なものである。

(3)道徳の問題に対して、道徳が客観的な性質に依存しているならば、それに回答することができる。例えば「このパソコンは日本製か?」という問いに対して答えが存在しているように、道徳的な問題にも答えることができる。

(4)道徳の問題は間違えうるということを認めるということ。つまり我々は間違えを是正していけば道徳的な進歩が可能である。

客観主義に対する批判

客観主義に対する批判には、絶対的で客観的な「正しさ」「善さ」というものはどのように分かるのかというものが挙げられる。2つの相反する倫理的判断があり、尚且つそのどちらかが正しいとする場合、なぜ片方の判断が正しいといえるのかと言う根拠はあるのだろうか、ということだ。論理経験主義者のアルフレッド・エアは、倫理的な価値に関わる発言は真偽を検証できないとして客観主義を批判している。

 

  • 主観主義

メタ倫理学における主観主義とは、主観の側に道徳というものは存在していると考える立場である。例えば、アリストテレス奴隷制を肯定していたが、現代人の殆どは奴隷制を肯定しないように、道徳は主観的なものであると考える立場。この立場をとるメリットとしては以下のものなどが挙げられ、これらの利点も互いに関係しあっている。

  1. 個人間による道徳的判断の差の説明
  2. 客観主義における問題点の超克
  3. 道徳的価値そのものに対する説明

(1)なにが善いことで、なにが悪いことなのかという判断は実際に人々の間で往々にしてすれ違うことがあるが、主観主義はこのことを説明できる。

(2)客観主義は、なぜ自分が正しいと正当化できるのか、なぜ自分が善いことをしているのか、などということについて説明することが難しい。主観主義に則ればそう類いの説明は主観的に決められるものとして処理することができる。

(3)そもそも、道徳という存在の価値は何なのかという疑問に対して主観主義は応答し易い。客観主義の場合、道徳的価値は客体に付帯している性質としてみなされるが、よくよく考えるとこれは些かおかしい。というのも、道徳的な性質というものは我々のために存在するのではないか、ということだ。客観的なものが、我々のために道徳的性質を宿しているしてくれているということになってしまう。

主観主義に対する批判

主観主義に対する批判には、ナチス奴隷制を是とする文化、極悪な犯罪者に対して外部から批判することができなくなってしまう、というものなどがある。道徳的な価値観は文化や個々人よって多様であるとして外部からの批判もなく、それぞれが正しいのだとした場合、誤りを認識することはできず、我々の道徳的な進歩は見込めないだろう。

 

  • 第三の立場

先述したように、以上の両者に折り合いをつけようとした立場などが現れる。R・M・ヘアの指令主義がその例である。その他にもデイヴィッド・ウィギンズなどによる主観主義と客観主義という二項対立そのものを解体する動きも現れたりした。しかし、こうした主張は中途半端であるとして両者から批判を受けることになる。その結果、厳密な客観主義と主観主義が改めて台頭することになる。

 

道徳的相対主義

道徳的相対主義とは、「ある物事に道徳的な事柄が当てはまるかどうかは、文化や社会によって異なる」と考える立場のことである。先述した主観主義とかなり近い立場であり、また相対主義と対立する立場である普遍主義は客観主義とかなり近い立場である。また、道徳的相対主義は以下の3つに区分できる。

  1. 事実レベルの相対主義
  2. 規範レベルの相対主義
  3. メタレベルの相対主義

(1)いわゆる記述倫理学のレベルにおける相対主義。すなわち、現に事実として、人々の道徳的な振る舞いは文化や社会ごとに異なっているという立場である。

こうした立場に対する批判は、一見、文化・社会ごとに従っている道徳は違うように見えても、それは外見だけであり、その内実は変わらないとするというものだ。例えば、「古代ギリシア人は死体を火葬するのに対し、古代インド人は死体を食す」という事実があったとする。こうしてみると両者の間には大きな倫理観の違いが見える。しかし、両者とも死者には敬意を払わなければならないという思想による実践の結果であるのならば、両者は宗教や病気への理解や伝統の差の違いがあるだけであり、実際は同一の道徳に従っていると言える。

他の批判として、道徳は文化・社会によって異なるという事実があるだけに過ぎず、それぞれの文化・社会で適用されている道徳が一様にして正しいのだという必然性はないのだと批判である。そのような批判をする立場の人々は、例えば儀礼として一族の中から生贄を差し出すことを強制するような文化について、現にその道徳は誤っているのであり、是正する必要があると主張する(『ONE PIECE』空島編の「カルガラとノーランドの物語」のようなものだろう)。

(2)規範レベルの相対主義は事実レベルの相対主義よりも一段強い立場である。彼らは、文化ごとに道徳は異なり、尚且つそれぞれの道徳が正しいのだと考える。

この立場に対する批判としては、文化によって道徳が異なると言う事実があったとしても、それが規範的な主張となる根拠はないというものや、例えば実際に虐殺などの行為が認められている文化を目の当たりにした場合、我々はそれを見過ごすことはできないという点から相対主義の主張には現実味がないと批判する立場がある。

以上の2つの批判は実践的な観点からの批判であるが、理論的な観点からの批判には「相対主義パラドックス」というものがある。これは、相対主義者は他のすべての主張は相対的なものであると考えるが、自分の主張だけは絶対的なものであると主張しているという点で矛盾が起こっている、という批判である。

(3)相対主義パラドックスに取り組む場合、事実や規範のレベルよりも一歩下がったメタレベルの相対主義に立つ必要がある。相対主義の基本的なテーゼに対して、①その主張は相対的であるとする途、②その主張は絶対的であるとする途、③その主張を修正するという途の3つの途が残されている。③についていうと、これは「全てではないが、いくつかの道徳的主張は相対的である」とし、いわば相対主義を諦める途である。

感想

なんか個人的にメタ倫理学の問題は美学の問題と似ているような感じがした。例えば、メタ倫理学が「倫理・道徳は何か」という問題に取り組んでいるのと同様に、美学は「美とは何か」という問題に取り組んでいると思う。また、美学の側もその問いに対して主観主義・客観主義の立場から問題に取り組んでいるし、カントのように間主観主義的な立場もあったりする。美学は詳しくないのでこの辺にしとくと、メタ倫理学は実際に学んでみると予想以上に幅が利きそうな学問であるように感じた。哲学分野だと行為論、認識論、法哲学フェミニスト哲学あたりとは結びつけられそうな気がするし、経済学、政治学社会学歴史学とかにも応用できそうできそうではある。なんとなくだけど。他にもカペレンやソール、和泉悠あたりが取り組んでいるような類の言語哲学(いわゆる応用言語哲学)なんかには容易に応用できるだろう。ちゃんと道具立てとして利用できるくらいには勉強したいと思う。

次に書こうと思っているのはまだ未定。最近自分の中で推論主義が再熱していて白川晋太郎の『ブランダム 推論主義の哲学』を再読しているので、候補としてはそれとブランダムの『推論主義序説』。それかメタ倫理学を経由した今だと法哲学がアツいので法哲学の入門にしようかなぁ。。。